
すこし昔ばなし。
私の生まれ故郷は見渡す限りの田園風景の中にあって、人間よりも、圧倒的に自然の方が存在感を放つ。
通っていた小学校ではクジャクやオオムラサキ、うさぎ、鶏がいて、季節ごとにカブトムシやカタツムリなどを誰かが拾ってきては育てていたり、たまに山奥から猿がおりてくるとかもあって、いつも人間以外の視線というものを意識していたように思う。
毎日餌や水を与え、よく観察して、授業の一環でスケッチ記録して、ちょっと環境を整えてあげたりして。
それでもいつかは元気はなくなるし、どの命も消えてしまうことを知った。
育てていた命が硬くなるたびに、学校の裏にある通称’お墓’と呼ばれる場所に穴を掘って埋めていた。
別に誰から教えてもらったという記憶はなくて、自然にそういうことを私たちはしていたように思う。
こうして生き物はみんな土に還るということも"知っていた"のだ。
周りの学校と合併した後は、食育の研究校になった。
時折生産者の方達と一緒に給食を食べていて、
毎日掲示板には野菜の名前とともに作った人の顔と名前が貼られていたように記憶している。
「作る➖育てる➖食べる」この循環にはいつも誰かしらの存在があって成り立っているし、この仕組みが見える生活を送っていた。
もちろんこれらの循環は「命」「食」以外にも置き換えられる。
建築、絵画、器、植物、土・・・もっと広く捉えれば経済だってそうだし、交通も流行もそうだ。
人の流れも記憶もすべて水のように球を循環している。
100年前の言葉が100年たって1つの花瓶になることだってあるのだろう。
そこに今を活きる花を挿すのはいつだってその時代を生きている人の特権だ。
窓辺の花を見たときに、その向こう側にある風景に思いを馳せる感性をいつまでも忘れたくないなと心底思う。
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Gökotta (ヨークオッタ)
記録者:こいけりか
暮らしに根付く感性の収集。
ある土地・コミュニティの中でしか生まれ得ない「ことば」や物語、光景の採集を行うことで、
記憶の循環を多角的なアプローチで解釈していく。